ブラームス/クラリネットソナタ第2番(コントラバス版)Juvichannel

コントラバスから鳴る低音が、ただ低いだけでなく、優しい低さで響いていた。

そして高音は優美で暖かく、透明。

 

特に、高音の透き通った暖かさがとても印象的だった。コントラバスの高音が、こんなに美しく優しくなれるのか、と驚いた。その音色は、まるで優美なお姉さんのようだった。無償で与えられる暖かな愛、頬を撫でる髪の美しさ、こちらを見つめるまなざし。

音色も、メロディーも何もかもそこにあるべくして存在している。

そこには思わず心を緩めて安心してしまう、優しい場所がある。

 

それらの音が、時に頬を撫でる風のようにさりげなく、

時にキッと見据えるまなざしのようにまっすぐに心の中に届いてくる。

 

コントラバス一台からあふれ出る、自由に変わる音色の雰囲気を聴いているのは、

一人の人の色々な面を一気に見ているようだった。

 

 

 

 

ニューイヤーバレエコンサート2021を観て

2021年ニューイヤーバレエコンサートを観た感想を記します。

バレエについてはほとんど何も知りませんでしたが、きらきらとした世界と踊りが持つ表現の力に圧倒されました。

 

第1部「パキータ」

舞台に立ったダンサーが踊りだすと、まるでスポットライトが当たっているかのように、その登場人物の気持ちや性格が浮き上がってきました。

 

皆衣装や見た目は似ているのに、ダンサーのほんのちょっとした動作一つでも雰囲気ががらりと変わり、多彩な人物が見えてきました。音楽の上を可憐にひらひらと舞う少女や、音楽をまとう上品なお姉さんといったように。

そのしぐさは時にそっと触れると割れてしまうガラスのようにとても繊細でした。

 

ダンサーが踊るとき、舞台の上はそのダンサーの世界に変身します。さらには、ダンサーは、舞台の空間だけでなく、時間さえも自由に操っていました。踊り方によって、時に1秒がゆったりと、時にくるくると速く流れていく様子には驚きました。一番きれいな形を切り取るようにぴたっと止まった瞬間には、思わず息をのんでしまいました。

 

第2部「Contact」「ソワレ・ド・バレエ」「カンパネラ」

バレエの表現力に一気に惹きつけられました。

「Contact」

 淡いピンク色の気持ちと黒い気持ち(男女)が、時の流れの中で曖昧にふれあって、ゆらゆらと流れていくようでした。どこへ向かっていくのかもわからなくて、一瞬触れ合ったかな、と思うとまた離れてしまう。その中で、最後に幸せが訪れたと思ったらその幸せがふっとすり抜けてしまう。その様子がとても切なかったです。

現実もこの演目と同様に残酷で切ないもので、音楽や芸術や愛や色々なものによってもたらされる一瞬の幻想のきらめきによって人間は生きてるのかなあ、とも思いました。

 

「ソワレ・ド・バレエ」

Contactとは打って変わって、幸せに満ち溢れたやさしい世界でした。

星のきらめきと涼しい夜風の中を、ふわふわと可憐に舞う女性の姿が心に残っています。踊りがふとゆっくりとした動作になるとき、つい目を奪われてしまいました。

 

「カンパネラ」

身体表現の凄さを感じました。言葉ではなんとも表現できない自分の中の感情を、感じたことをこうやって踊りで表現できるのか!と衝撃的でした。音と身体の世界で、音から感じ取った、言葉になる前の生の感覚を身体が表現していました。それがとてもとても面白かったです。そして、舞台装置が少なく世界観が固定されていない分、沢山想像の余地があったため、色々な事を想像して考えながら楽しむことができました。

 

第3部「ペンギン・カフェ

ペンギン・カフェ」は、確かに一見可愛らしいけれども裏に強い主張を感じる作品でした。第2部と比較すると、第2部は言葉にできない感覚のための踊り、第3部は言葉(主張)を届けるための踊りという印象でした。くるみ割り人形のような作品だけを観ていては気づかない、バレエというものが表現する対象の多様さを感じました。

 

ペンギン・カフェ」で出てくる踊り自体は、神聖であったり、無邪気であったり、にぎやかだったりして、多様な動物が自由に生きようとしている姿が印象に残りました。

最後のシーンを観ながら、現実世界では、果たしてノアの箱舟は訪れてくれるのだろうか...といったことを考えていました。

 

どの演目もかけがえのない瞬間を私の人生にもたらしてくれました。

ライブ配信という形で公演を実現してくださった関係者の皆様、ダンサーの方々、オーケストラの方々に感謝しています。

ベートーベン交響曲第7番 第4楽章 感想(短version)

芯となる、力強く全体を駆動しているシステムがあって(主に低温楽器によって奏でられる)、その周りをきらきらした光のように細かい音符たちが飛び回っている。
周りを飛び回っている音符たちが、曲の後半にかけて段々増えてきて、まぶしく、大きな光になっていく。

 

暗い世界を、強く明るく照らすような音楽

力ずくでもまぶしく照らしてやろう、という感じ。

リモートワーク

リモートワークになって、様々な場所での「自分」が乱暴に「私の部屋」という一つの場所に集まっており、本来はオフの自分がいる場所でそれぞれを頑張って演じようとしている。

 

楽屋で演技をしているような不思議な感じ。

 

ただ、演技が終わったときに「本当の自分」がすぐそこにいて、

すぐ帰ってくることができる安心感がある。

 

メンデルスゾーン 交響曲第3番イ短調『スコットランド』第2楽章

初春の風のような,爽やかな曲.
風に乗って音楽が進んでいく曲.

同じメロディーが,何度も吹き寄せる風のように吹き抜けていく.
アクセントがガンガン効いてくると,ぐうっと気持ちが盛り上がっていく.
盛り上がりながらも、背後の音型が作り出す風の流れに乗って勢いを損なうことなく曲が流れていく.


春の日のような,柔らかい心の振動
ざわめきと若い希望が感じられる.

ベートーベンの「合唱幻想曲」

合唱,ピアノ,オーケストラという編成の曲.第九の前の試作品ともいわれるこの曲は,ベートーベンの「こうしたら面白いんじゃないかな?」「こうやったらもっと幸せかなあ?」と色々試している雰囲気が全体に感じられてとっても楽しい.

曲の初めの方でオーケストラとピアノの音が混ざっていくその様子は,まるでその場でベートーベンがピアノで作曲していて,作曲しているベートーベンのピアノの音とベートーベンの頭の中で聴こえているオーケストラの響きを同時に聴いているよう。

 

曲の最初は,しーんとした中にピアノの音がやってくる。

でも、はじめは、この音楽がどこに向かっているのかわからない。

まるで夜の道をだれかについていきながら歩いているように、期待しながら、不安になりながらどこかに向かっている。

その中で、ふいに面白げなメロディーがやってきて,お,何かはじまるぞ!と思わせたり、また静かになったりしていく。

 

そこに,徐々に,さりげなくオーケストラがピアノの音にまじりあってくる.その中で、あたりがだんだん明るくなってきて、どこか幸せそうな場所に向かっているのだということが見えてくる。

 

ピアノとオケは,はじめのうちは最初はくすくすとお互いに楽しく幸せなおしゃべりをしている.そのうち,ピアノがこうかな,と弾くとオーケストラがこんなのはどう?と返して,オーケストラとピアノが楽しくセッションしているみたいになってきて…

さらに,オケがみんな行くよー!と勢いに乗って引っ張ったかと思えば,ピアノがいやいや,こんなのはどう?と言ってくる.そのやり取りが,だんだんと幸福に満ちた暖かな世界を作り出していく.その中に,光の飛沫のようなきらきらっとしたトリルが入る.そこは第九のような喜びの世界なのだけど,第九が人類愛や喜びを表現しているのなら,合唱幻想曲は体の底からじわじわとこみあげてくる嬉しさのよう。

 

そして,最後には合唱も加わって,更なる喜びの力が沸き上がって,それらがどんどん力を持って,より高い喜びの世界へと押し上げていく。そう、いざなうのではなく、終盤に向かうにつれてどんどん強くなる喜びの圧力をもってして私たちをより高い喜びへと押し上げていく.

 

今回は、レイフ・オヴェ・アンスネスとMahlar chamber orchestraによる

「合唱幻想曲」を聴いて書きました。

 

f:id:Akinomi:20200125000232j:plain

 

椿姫 Sempre libera 「花から花へ」の感想

姫の第一幕、高級娼婦であるヴィオレッタ(椿姫)の邸宅でのパーティーに訪れていた宴の参加者が帰ってぽつんと残された椿姫が歌う複数のアリアの一つ。

歌の歌詞は、

 

いつも自由になって 私は喜びから喜びへと派手に騒ぐの
私は 自分の人生を 喜びの道に向かって過ごしたいの

一日が生まれ、一日が死んでいくように
宴の中で いつも陽気に、
いつも新たな喜びで
私の思いは飛んで行かなければならないの

(https://tsvocalschool.com/classic/e-strano/より引用)

 

この歌詞を一見すると、毎晩遊んで暮らせればそれでよく、それ以外のものを望んでいないように受け取れます。しかし、本当にそうでしょうか。私は、おそらくそうではないと考えます。その理由の一つ目は、文脈です。この歌の前の歌では本当の愛へのあこがれや渇望を述べており、それを振り払うようにこの歌が始まります。二つ目は、この歌の音楽です。

 

この歌は、沢山のシャンパンがはじけるような弦楽器のスタッカートにのって始まります。歌手も、はじめは軽やかに歌い始めます。しかし、その後、何度も何度もまるで届かないものを追うように高い音とそこからの下降音型の形が繰り返されます.

心の底で渇望している愛を何度も何度も呼び求めているように。「誰か、愛してほしい」と叫んぶように.そして、アリアの後半、アルフレードの声が聴こえてきますが、それを振り払うように歌い続けます。これらは、ヴィオレッタが必ずしも歌詞どおりの気持ちを歌ってはいないことを示唆します。

 

パーティーに来てちやほやしてくれる人は、椿姫の「若さ」や「美しさ」にちやほやしているのであって、それらを失ってしまえばあっという間に離れてしまう。

この歌は、本当に愛され、大切にされて生きることができずに生きてきたということに対して去来する寂しさや孤独をかりそめの「快楽」でおおいかくすように歌っているのではないかと考えられます。加えて、これまで本当に愛されてこなかった故に、愛し愛されることに対して期待することへの恐怖も表現されているのかもしれません。

 

以下では,二人の歌手の歌い方を紹介します.

 

イレアナ・コルドバスのSempre liberaは、上品で優しく微笑むように、歌の最中、低い音を歌う際には、投げやりな雰囲気を醸しだしており、歌の中で優しく美しい椿姫の表向きの姿と孤独に悩み苦しむもう一つの姿が織り交ぜられているようでした。

f:id:Akinomi:20200119215537j:plain

 

以下のアルバムの(歌手がわかりませんでした…)Sempre liberaは、孤独の中で強く立っている女性。艶やかで凛とした印象。生きる自分の生き方に自信を持ち、不安や孤独感を飲み込んで存在する強さを持っていると感じました.

f:id:Akinomi:20200119215558j:plain